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今日は少し寒かったので、豚しゃぶをしました。非常に美味かったです。w豚はいくら食べてもエグくならない所が利点です。最後はきし麺を食べましたが、これも鍋料理に合うような気がします。平べったいので、スルスルとお腹に入ります。そして食いすぎて辛くなります。(苦笑しかし三十分くらいしたら、お腹の痛みは消えて無くなります。w気分が良い状態の内に読書感想文を書いておきたいと思います。(苦笑丸山真男著『日本の思想』岩波新書、1961年。です。表紙カバーにある紹介文(?)では、「現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視点から追究していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。」と書かれています。目次は、Ⅰ日本の思想まえがき日本思想史の包括的な研究がなぜ貧弱なのか/日本における思想的座標軸の欠如/自己認識の意味/いわゆる「伝統」思想と「外来」思想/開国の意味したもの一無構造の「伝統」その(一)-思想継起の仕方/無構造の「伝統」その(二)-思想受容のパターン/逆説や反語の機能転換/イデオロギー暴露の早熟的登場/無構造の伝統の原型としての固有信仰/思想評価における「進化論」二近代日本の機軸としての「國體」の創出/「國體」における臣民の無限責任/「國體」の精神内面への浸透性三天皇制における無責任の体系/明治憲法体制における最終的判定権の問題/フィクションとしての制度とその限界の自覚/近代日本における制度と共同体/合理化の下降と共同体的心情の上昇/制度化の進展と「人情」の矛盾四二つの思考様式の対立/実感信仰の問題/日本におけるマルクス主義の思想史的意義/理論信仰の発生/理論における無限責任と無責任おわりにⅡ近代日本の思想と文学-一つのケース・スタディとして-まえがき政治-科学-文学一明治末年における文学と政治という問題の立てかた/文学の世界をおそった「台風」/「社会」の登場による走路の接近/マルクス主義が文学に与えた「衝撃」/文学者に焼付けられたマルクス主義のイメージ/昭和文学史の光栄と悲惨/政治(=科学)の優位から政治(=文学)の優位まで二プロ文学理論における政治的および科学的なトータリズム/政治的と図式的/政治過程におけるエモーションの動員/政治における「決断」の契機/思考法としてのトータリズムと官僚制合理主義/政治の全体像と日常政治との完全対応関係/方法的トータリズムの典型/政治(=科学)像の崩壊-転向の始点と終点/日本の近代文学における国家と個人/「台風」の逆転と作家の対応の諸形態/旧プロ文学者における文学の内面化と固体化/対立物(文学主義)への移行契機三文化の危機への国際的な対応/各文化領域における「自律性」の模索/政治・科学・文学における同盟と対抗の関係/科学主義の盲点/トータリズムの遺産の否定的継承/「意匠」剥離の後に来るものⅢ思想のあり方について人間はイメージを頼りにして物事を判断する/イメージが作り出す新しい現実/新しい形の自己疎外/ササラ型とタコツボ型/近代日本の学問の受け入れかた/共通の基盤がない論争/近代的組織体のタコツボ化/組織における隠語の発生と偏見の沈殿/国内的鎖国と国際的開国/被害者意識の氾濫/戦後マス・コミュニケーションの役割/組織の力という通念の盲点/階級別にたたない組織化の意味/多元的なイメージを合成する思考法の必要Ⅳ「である」ことと「する」こと「権利の上にねむる者」/近代社会における制度の考え方/徳川時代を例にとると/「である」社会と「である」道徳/「する」組織の社会的擡頭/業績本位という意味/経済の世界では/制度の建て前だけからの判断/理想状態の神聖化/政治行動についての考え方/市民生活と政治/日本の急激な「近代化」/「する」価値と「である」価値との倒錯/学問や芸術における価値の意味/価値倒錯を再転倒するためにあとがきとなっております。「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」「Ⅳ」はそれぞれ別々に書かれた論文と講演になっております。「ⅠとⅡ」が論文形式で、「ⅢとⅣ」が講演形式になっております。講演形式は「です・ます」調なので比較的分かりやすかったです。論文の方は難しかったです。(苦笑特に「Ⅱ」はきつかった。wササラ型とタコツボ型は社会や文化党等を二つの類型で表現しています。ササラとは竹の先を細かくいくつにも割ったものです。手のひらと指でいうと、手のひらという共通部分から指が細分化していくということでしょうか。タコツボとは、それぞれ孤立したタコツボが並列している型です。丸山博士は、近代日本の学問とか文化あるいは色々な社会組織形態というものが、ササラ型ではなくタコツボ型であると定義しています。学問で考えるとタコツボ型は、分業化や専門化現象などという表現も使っています。一方ヨーロッパはササラ型で、「個別科学の根はみんな共通なのです。つまりギリシャ-中世-ルネッサンスと長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化」しているとのことです。(前掲書、132頁参照)この「末端の部分」の形態が日本に移植され、それが現在でも大学の学部などに分類されているとのことです。そこには「共通の根」という意識がが、学問を掘り下げていってもぶつかって来ないタコツボ化に進みます。「自然科学者と社会科学者との間に、われわれは本質的に同じ仕事をやり同じ任務をもっているという連帯意識というものが非常に乏しい、いや大学や学界の哲学と社会科学というものの間にも内面的な交流が殆んどない。哲学というものは本来諸科学を関連づけ基礎づけることを任務とするものです。ところが近代日本では哲学自身が-少くもアカデミーの世界では専門化し、タコツボ化した。哲学自身が専門化するってことは、ある意味では矛盾なんですけれども、そうなっている。哲学者は社会科学に無知だし、社会科学者は哲学者のやっていることは自分の仕事とは全く縁がないと思っている。たとえばヘーゲル哲学というものは、法律学の上にも歴史学の上にも社会学の上にも非常に大きな影響を及ぼし、社会科学のグルントになった。これに対し、日本でいちばん独創的な哲学といわれる西田哲学が社会科学の各分野を基礎づける原理としてはどれほどの有効性を持ったでしょうか。各社会科学相互間、たとえば法律学、政治学、経済学というような本来密接な関連をもつ学問分野間でさえコミュニケーションがあまりないという状態です。いわんやたとえば文学畑と社会科学畑との間ということになると、疎隔がもっとはなはだしいわけであります。文学者と社会科学者が共通の言葉を話すということは、現在においても非常に困難でありまして、社会科学者とか文学者とかいう看板をはずして一ぱい飲むというようなことをしなければ、なかなか話が通じない有様です。それぞれ社会科学者として、あるいは文学者として、自分たちの持っている共通の問題を学問的に話し合おうとすると、これは共通の言葉が非常に乏しいのです。(前掲書、133頁~134頁参照)少しダラダラと引用してしまいましたがw、今現在も「共通の言葉」を増やすには至っていないと思われます。あと他にも書きたい事があるのですが、また別に機会に(日記のネタに困った時にw)紹介したいと思います。UFC2009プレイ動画その十一その十二
結構前に相方と部屋で遊んだ時の画像w二人ともすっぴんでコスとか^q^アホですねwでも栞ちゃんすっぴんもかあいいよ^^吹雪のウィッグはまだセットの途中。またいつの日か続きやらなきゃなやっぱりまもたんはかあいいよ本物と栞咲氏の夢のコラボw正義の鉄拳足上がってねぇよwそして股が裂けるwww悶えるまもたんハァハァハァブロマイドのポーズにも挑戦吹雪さんジャージのままだよ^q^もっといっぱい撮ったけど、ほぼ変顔だから載せるのは自重しまするwまぁすっぴんでコスするとこから自重しやがれっていう話ですね。わかります^q^今度はコスプリ撮る予定です。いつになるか分からないけど^^;