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 ということで、やっぱり面白いなと竜馬がぐっときています。「あやつられた龍馬 」という本を読みました。文庫に関して冒頭に「江戸の街はゴミひとつなく綺麗であったといわれているが、これは空き瓶、空き缶、紙くずなどの資源ゴミさえない江戸が貧しい町であったからである。けっして江戸が清潔に保たれていたわけではない」という追記があり、ここから作者は、物事の形式に囚われず、真実のみを見抜く眼をもっている。うんぬんと書かれているのですが、とりあえずツッコミいれると、当時の江戸は上下水道が完備していて、江戸湾で取れたサカナが生で食べれたのも、生活廃水をそのまま垂れ流さない設備が整っていたからです。そのころのフランス・パリなどはトイレ、水道も存在しておらず、ツボに溜めた排泄物をそのまま道端に捨てていて、町はとても臭かったとか。そのためにハイヒールやブーツという足を汚さないための靴が発達したという。空き缶、空き瓶、資源ごみ?当時の時代でどこの世界探してもなかったんじゃないの?wwwwwということで、とてもまともには読んでいられない本でした。 断っておきますが、学研のムーや矢追純一のUFO本のほうがまだまともなことが書かれています。あと、この作者アントニオ猪木とともに事業を起こしたことがあるそうです。あの永久電池、アントン・ハイセル、ピストル密輸事件の猪木です。ここまでこればどういう人物か説明するまでもないでしょう。迷わずいけよ、いけばわかるさー。ありがt-。よくぞ、出版した祥伝社。龍馬と武器商人グラバーとの交友を交え、その裏にあったフリー・メイソンとの関係を暴くといった内容になっています。正直、フリーメイソン本としても、並以下のデキでしょう。また龍馬最後の手紙に、暗殺の答えが描かれていたという超常論も飛び出すのですが、ここの解釈の仕方は完全に笑うところですね。そして、暗殺の真犯人は、中岡慎太郎。龍馬といっしょに死んでるやんwwwwwしかも、武器も持たずに油断していたということは、もっとも信頼している相手に裏切られたのだろうと、手紙の存在が関係ねええwwwwwwwww---------------------------------------------------------もう、いいや。こんなことが書きたいんじゃない。そもそもこの本に関心をもったのも、竜馬って不思議な部分が多いんですよ。 わずか33年の生涯のなかで、大きく動き出したのは27歳あたりから、これからの五年間であまりにもポンポンと巧く話しが進みすぎているんですよね。・勝海舟宅に出向き、そのまま門弟に入る。 (勝に言わせれば、アイツはオレを斬りに来たw)・海舟とともに神戸海軍操練所で船の操縦を学ぶ。・ここから海援隊をつくり、薩長の側につく。・薩長に同盟を進言。さらに幕府に大政奉還を進言。ありえねー、なにこのシンデレラ・ストーリー歴史に本当にいたの? また勝に弟子入りしたあと、松平春獄と合い、気に入られたという話があるのですが、この人徳川の血筋の人で、天下の四賢候と謳われ、明治という年号も作った人だぜ。どうやったら、土佐藩の下級の武士の生まれで脱藩という罪まで犯していた人間があえるんだよwwwww神戸の海軍操練所も、海舟がつくったもので塾頭は竜馬、しかも、短期間しか存在していない。まるで竜馬に船の運転を教えるためだけにあったかのような存在だ。そして、竜馬がつくった海援隊は、奇兵隊や新撰組のような武闘集団ではなく、政治結社でもなく、ただの商社です。船で運び、右から左にモノを動かして、利益をえる企業です。どうして、こんな短期間にこれだけ話がうまくすすむの? フリーメイソンの存在が置いておいて、どう考えても竜馬を知る上で重要なピースが欠けているんですよ。武士とか支配階級とかだけでなく、それ以外からの視点。これまで歴史で語られてくることのなかった世界からもう一つ何かがないと、存在が成立しない。まだ解明されていないもう一つの姿があるはずなんですよ。 ここからが本題なんだけど、長くなるので明日ー

山尾悠子の新作が出ていた。いやー、7年ぶりか驚いたなぁ。表題は『歪み真珠』。歪み真珠なイメージが渦巻く15の幻想掌篇小説集、だそう。少し調べてみたら、真円でない真珠をbarrocoといって、バロックの語源になっているとする説がある。『歪み真珠』を一読する前にバロックについて調べたらよさそうだ。一篇目は、『ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠』。ああ、いい。彼女の脳内は間違いなくレディだ。彼女を敬わずして、何を敬うか。そういうことだから記念に山尾悠子について作文をしておこうと思う。 このあたりには何もがなかった。寄る辺となるような大木も、頭から全部包みこんでくれる湖も。何もかもが。だとすれば私はいったい、なんの上に立ってゐるというのだらうか。さうしたら、宙に浮いてゐるとするのがしっくりとくるやうな気がする。 かのアイザック・ニウトン公がとなえた天上界はエヱテルと呼ばれる第五元素が満ちているらしいが、仮に私がこのまま浮上しつづけて月よりもたかくへ行ってしまったとしたら、「それはなんてゆかいなのだらう」光ってはきえ、揺れてはとまり、摂っては、はきだしてさうして私はただただこのあたりをたゆとうている。 そのようなこのあたりであっても、天気がいくぶん優れた日には遠く、一番星が鋭くみえることがある。そのような晩は一夜の金星が白金の如くにまたたいてゆるりと私を誘ってくるのだ。「こちらへおこし、ずっとわたしはここにおる。ほれ、はやうこんか」と。「私も今すぐそちらへ参りたいと思ってゐるのだ。しかし、どうやっても行き方が分からん。どうすればよいのだらうか。なあ、教えてはくれないか」決まって一番星は答えてはくれないのだが、それがために私は濃厚な充足をえるといえる。夢にいきているものにとって表象に美しさを感じることができたなら、それは定まって幸せなことなのである。そうして、山尾悠子は貴婦人であるし、真珠のように気高くあるのである。いうまでもなく、そこにはルサンチマンをはじめとするいわゆる俗っぽい感情は有り得ない。なぜなら、天気が悪うなっても、星はまたたくことを止めはしないのだから、私はそんな、せつな的に惑うような馬鹿な真似をしないからである。ただただ悠然と、それから安泰にいることが貴いのである。